1945年8月6日、2歳の女の子
佐々木禎子(さだこ)さんは、1943年に広島で生まれました。
1945年8月6日。 原爆が投下されたとき、禎子さんは2歳。 爆心地から約1.6km、自宅の窓際にいました。
爆風で吹き飛ばされたものの、外傷はなく、お母さんの腕の中で生きていました。 「奇跡の生還」と思われたんです。
その後、禎子さんは元気な少女に育ちます。 学校では足が速く、リレーの選手。 クラスで人気者だったそうです。
10年後の発症
ところが1954年の冬から、首と耳の後ろに発疹が出始めます。 1955年1月、足に紫色の斑点。
診断は「白血病」。 広島では「原爆症」とも呼ばれていました。 当時、治る病気ではありませんでした。
1955年2月21日、広島赤十字病院に入院。 余命1年と告げられたそうです。
折り鶴との出会い
1955年8月3日。 親友の千鶴子さんが見舞いに来て、金色の折り紙を取り出しました。 それを折って、一羽の鶴を作って手渡します。
「鶴を1000羽折ると、願いが叶うんだって」
日本に古くからある伝承を、千鶴子さんが伝えたんです。
禎子さんはその日から折り始めます。 病院にあった包装紙、薬の袋、お見舞いの紙。 紙はとても貴重でした。 ときには米粒ほどの小さな鶴も折ったそうです。
1000羽は折れたのか
長い間、英語圏では「禎子さんは644羽までしか折れずに亡くなった」と伝えられてきました。 1977年に出版された児童書のストーリーです。
でも、広島平和記念資料館の展示によると、禎子さんは1955年8月末に1000羽を達成しています。 そしてその後も、お父さんの借金が消えますようにと、新しい願いを込めて折り続けたそうです。
最終的に、1300羽以上を折りました。
1955年10月25日、禎子さんは家族に見守られて亡くなりました。 12歳。 病室にはたくさんの折り鶴が飾られていました。
同級生たちの行動
禎子さんが亡くなったあと、同級生たちが立ち上がります。
「禎子さんと、原爆で亡くなったすべての子どもたちのために、像を建てよう」
クラスで募金を始めて、それが学校じゅうに、市内に、全国に広がります。 最終的に、3,100の学校と9つの国から寄付が集まりました。
3年後の1958年5月5日、こどもの日。 広島平和記念公園に「原爆の子の像」が完成します。 てっぺんで、禎子さんが両手で大きな金色の鶴を掲げています。
像の台座には、こう刻まれました。
これは ぼくらの叫びです これは わたしたちの祈りです 世界に平和をきずくための
世界に広がる鶴
いまこの像の周りには、毎年およそ1000万羽の折り鶴が世界中から届きます。
ニューヨークの9.11追悼館、真珠湾、トルーマン大統領記念図書館。 禎子さんが折った本物の鶴が、贈られた場所もあります。
そして大きな災害があるたびに、人々は鶴を折ります。 東日本大震災、ウクライナ、ガザ。 鶴は「祈り」と「あなたを忘れない」という言葉になりました。
タグ運動への、小さなヒント
折り鶴がここまで広がったのには、理由があると思います。
ひとつは、紙さえあれば誰にでもできること。 ふたつ目は、一人ひとりの行動が、目に見えて積み上がること。 そしてみっつ目は、最初に動いたのが「子どもたち」だったこと。
組織でも、政府でもなく、12歳の少女と、その同級生たちでした。
私たちのタグ運動も、同じだと思います。 小さな団体でも、一枚一枚を手渡していけば、いつか1000羽になる。
これは わたしたちの叫びであり、わたしたちの祈りです。

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