2016年6月23日、ロンドンの朝
2016年6月23日、イギリス。 EU離脱の是非を問う国民投票の翌朝。
結果は52%対48%で「離脱(Brexit)」。 僅差ですが、勝敗は決まりました。
そしてその日から、街の空気が変わります。
「お前の国に帰れ」 「ポーランド人は出ていけ」 ロンドンの公園のベンチに、ポーランド系コミュニティセンターの壁に、地下鉄の中に。
ヘイトの言葉と落書きが、急に増えました。 全国警察庁長官評議会によると、投票直後の1週間でヘイトクライムの報告が57%急増。 ヒジャブをつけた女性、移民2世の若者、英語にアクセントのある人。 普段の生活で標的にされるようになります。
6月26日、一人のツイート
投票から3日後、アメリカ出身でロンドン在住の30歳の女性、アリソンさん(Twitterでは@cheeahs)が、こう書き込みました。
「シドニーの#illridewithmeみたいな運動が必要だと思う。誰でも、どこでも、自分のジャケットに付けられる何かを。 たとえば、何も書いてない安全ピン。 バスで隣に座っても安全な人、街で隣を歩いても安全な人、話しかけても大丈夫な人。 文字通りの『SAFETY pin(安全ピン)』」
ただの、ありふれた、家のどこかにある安全ピン。 これが、運動になりました。

なぜ安全ピンだったのか
アリソンさんは後にCNNの取材でこう語っています。
「買いに行く必要がない。言葉も政治スローガンもいらない。誰でも、いますぐ参加できる。 それが必要だと思った」
#illridewithmeは、2014年シドニーの人質事件後に始まった運動です。 イスラム教徒へのヘイトが広がる中、「電車で一緒に乗ります(I’ll ride with you)」と申し出るハッシュタグでした。
アリソンさんはその系譜にあるシンボルが必要だと考えました。 ただし、もっとシンプルに。
バスの中の風景
アリソンさんは、ある場面を例に挙げます。
「ヒジャブを被った女性がバスに乗ってくる。 空席は一つしかない。 彼女は隣に座って大丈夫な人かどうか、一瞬で判断しなきゃいけない。 そのとき、安全ピンが見えれば、ほっとできるかもしれない」
この運動は、声を上げるためではありません。 「私はあなたを攻撃しない」という、沈黙の合図です。
あっという間に広がる
ハッシュタグ #safetypin は、数日で何万回と使われました。
「胸の聴診器の隣に、安全ピンをつけました」と書く医師。 「Tescoのレジで、見ず知らずの女性に抱きしめられました」と書く若い女性。 「ボスニア出身です」と短く書いて、自分の安全ピンの写真を上げる男性。
そして11月、アメリカ大統領選でドナルド・トランプが勝利した後、運動は大西洋を越えます。 ニューヨークでも、ロサンゼルスでも、安全ピンが胸についた人々が現れました。
「ただの自己満足では?」という批判
しかし運動には強い批判もありました。
「安全ピンをつけたくらいで、何が変わるのか」 「何もせずに『私はいい人』と思えるだけの、自己満足ではないか」 「これはスラックティビズム(怠惰主義者の活動家ごっこ)だ」
「Slacktivism(slack=怠惰 + activism=社会運動)」という言葉が、SNS時代によく使われるようになりました。 クリックひとつ、シェアひとつで「何かをした気になる」現象です。
アリソンさんの返答
この批判にアリソンさん自身が答えています。
「最初から、私はこう言ってきました。 安全ピンをつけるなら、その意味を背負わないといけない。 人種差別やヘイトの場面に出くわしたら、止めに入る。警察に通報する。 ただピンを付けて『私たちは差別主義者じゃない仲間ね、いい人ね』と確認し合うのは、違います」
つまり、安全ピンは「終わり」ではなく「始まり」です。 名乗りを上げた以上、それを行動で支える義務がある、と。
沈黙の連帯、という発明
それでも、私はこの運動の中に大事なものがあると思います。
それは「沈黙の連帯」という形式の発明です。
声高に叫ばない。 横断幕を持たない。 スローガンを書かない。 ただ、胸に小さなピンを。
これは、ふつうの人が、ふつうの一日の中で、ふつうの服に何かをつけるだけの行為です。 特別な勇気も、組織も、お金もいりません。
そして安全ピンを見た人が、もし苦しい時間を生きているなら、ふっと息をつけるかもしれない。 それだけのために、それだけのために存在する運動です。
タグ運動へのヒント
安全ピン運動が教えてくれることは、ふたつあります。
ひとつ目。 シンボルは「叫ぶため」だけのものではない。 時には「ここに味方がいます」とそっと伝えるためのものでもある。
ふたつ目。 そして、シンボルだけでは足りない。 ピンを付ける人は、必要な瞬間には行動する覚悟も持つ。
私たちのタグも同じだと思います。 配ること、付けてもらうことがゴールではありません。 それは「私はこのことを大事にしています」と名乗ることであり、必要なときには声を上げる、その第一歩です。
小さな金属の留め具が、誰かの心を支えることがある。 そんな運動の形があることを、2016年のロンドンが教えてくれました。

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