始まりは1本の歌
「樫の木に黄色いリボンを結んで」
1973年、トニー・オーランドとドーンが歌ったヒット曲です。 出所した男が恋人に「まだ僕を待ってるなら、黄色いリボンを木に結んで」と語りかけるバラード。
リボンを「想いを伝えるしるし」にした最初の出来事は、この曲から始まりました。
1979年、イラン人質事件
1979年、テヘランのアメリカ大使館が占拠されます。 人質にとられた職員の妻、ペニー・ライゲンさんは、自宅の樫の木に黄色いリボンを結びました。
「夫の帰りを待っている」というメッセージです。
近所の人が、また近所の人が、同じように木にリボンを結びました。 全米に「黄色いリボン」が広がっていきます。
1991年、赤いリボンが登場
時代は進み、1991年。 ニューヨークのアートグループ「Visual AIDS」が、新しいリボンを作りました。
色は赤。 理由は「血と情熱、怒りと愛の色だから」。
エイズで亡くなる人、苦しむ人への連帯を示す印でした。
その年のトニー賞授賞式で、俳優ジェレミー・アイアンズが胸に赤いリボンをつけて登場します。 番組では何のリボンか説明されませんでした。 それでも、メディアと観客は釘づけになりました。
翌年、ニューヨーク・タイムズは1992年を「リボンの年」と宣言します。
ピンクリボンの、知られざる原型
1991年、カリフォルニア州。 68歳の主婦シャーロット・ヘイリーさんは、桃色(ピーチ)のリボンを手作りしていました。
祖母、姉妹、娘 — 三世代が乳がんを経験した家族でした。
ヘイリーさんはリボン5枚をハガキに貼り、こう書いて配ります。
「国立がん研究所の年間予算18億ドルのうち、予防に使われるのはたった5%。議員と国民を目覚めさせるため、このリボンをつけてください」
完全な草の根運動でした。
そしてピンクへ
1992年、雑誌『SELF』の編集長アレクサンドラ・ペニーが、エスティ・ローダーと組み、リボンを「ピンク」に変えて全米に配ります。
ヘイリーさんは取材に協力を求められましたが、断りました。 「ロビー活動ではなく、商業的になりすぎる」と感じたからです。
色を変え、企業が乗ることで、リボンは爆発的に広がりました。 でも、「予防への予算を増やせ」という最初のメッセージは少し薄まりました。
これは「ピンクウォッシング」批判の出発点でもあります。 ピンクの商品を売って好感度だけ上げ、本当の問題には触れない企業への批判です。
1991年、白いリボンが生まれる
1989年12月6日、カナダ・モントリオール。 モントリオール工科大学で、男が「フェミニストが憎い」と叫び、女性ばかり14人を殺害します。
社会は凍りつきました。
2年後の1991年、トロントの男性たち数人が立ち上がります。 「男性による女性への暴力に、男性自身が反対の声を上げよう」
胸につけたのは白いリボン。 意味は「男たちが武器を捨てる」。
このホワイトリボン運動は、いま60か国以上に広がっています。 毎年11月25日(国際女性に対する暴力撤廃デー)から、12月6日まで身につけるのが習わしです。
リボンが伝えてきたこと
黄色は帰還を待つ祈り。 赤はエイズへの連帯。 ピンクは乳がんへの想い。 白は男たちの誓い。
色も意味も違いますが、共通点があります。
ひとつ目。 全部「ループ」、つまり輪っかでできていること。 人と人をつなぐ形です。
ふたつ目。 誰かの悲しみから生まれたこと。 処刑される夫の妻、亡くなる友人、殺された女性たち。
みっつ目。 身につける人自身が「メッセージ」になること。 シャツを着て歩くだけで、声明になります。
タグ運動への、ひとつの問い
リボンの歴史は、シンボルが「広がる力」と「乗っ取られる危うさ」、両方を教えてくれます。
ピンクリボンは世界に広がりましたが、企業のマーケティングに使われる場面も増えました。 ホワイトリボンは「男たちが行動する」原点を、いまも丁寧に守り続けています。
私たちのタグも同じです。 広げることと、本来の意味を守ること。 両方を考え続けながら、手渡していきたいと思います。

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